中田英寿が見た、福島第一原発|3.11企画 - Yahoo! JAPAN

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中田英寿が見た、福島第一原発

震災から7年。福島県では今も帰還困難区域があり、約5万人の住民が県内もしくは県外への避難を余儀なくされている※1。一方で、福島第一原子力発電所では廃炉作業が進められ、労働環境の改善をはじめ少しずつ前進を見せているという。原発をはじめ震災関連の報道が減り始めている今、福島のイメージが事故発生当時のままで止まっている人も少なくないのではないだろうか。
(※1 2018年2月5日現在:福島県災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震による被害状況即報」より)

元サッカー日本代表の中田英寿さんも、その一人だった。現役引退後、中田さんは47都道府県を巡り、日本の食文化やものづくりの現場を自分の目で確かめてきた。中でも日本酒については自身で事業会社を設立し、イベントなどを通じてその魅力を国内外に発信し続けている。また昨年末には福島の日本酒を厳選した「CRAFT SAKE DAY FUKUSHIMA」を開催した。

「毎日の生活で当たり前になっているものこそ、きちんと関心を持たなければ」と中田さんは言う。口にするものや、着るもの、そして、電気も。日々の暮らしでは見えてこない、福島第一原発の今。廃炉に向け何が行われているのか。周辺の地域ではどんな暮らしが営まれているのか。福島県の「いま」をこの目で確かめたい。2018年1月末、中田さんは福島第一原発を訪れた。

なぜ廃炉にここまで時間がかかるのですか?

福島県双葉郡富岡町にある東京電力旧エネルギー館を訪れた中田さんは、東京電力が用意したバスに乗り込んだ。福島第一原発は、ここから車で約20分の距離にある。

中田さん「震災関連のニュースを見てはいるのですが、目にするのはどうしても断片的な情報になってしまいます。今何が課題なのか、どうなれば終わりなのか、どこに向かっているのか、ほとんど分からない。震災から今までの7年間が、頭の中でつながっていないのが正直なところです」

国道6号線を北上すること約10分、バスは帰還困難区域に入った。未だ放射線量が高く、立ち入りが制限されているため、7年前から時が止まったままのエリアだ。車窓には崩れ落ちた店舗や、入口をバリケードでふさがれた住宅が続く。

立ち入りが制限されているエリア1 立ち入りが制限されているエリア2

無言で街の様子を眺めていた中田さんは、「この辺りは、誰も住んでいないんですね」と、同行する東京電力の担当者に言葉を投げかけた。

中田さん「住民の方は、早く戻りたいのでしょうか。それとも、戻らない選択をされた方も多いのでしょうか」

東電担当者「戻りたい方もいる一方で、子どもが成長し学校に通い始めるなど、避難先での生活が根付いてきた方もいらっしゃいます」

中田さん「確かに7年もたつと、震災当時と状況が変わってしまうケースもあるのでしょうね」

バスは国道6号線を東へ折れた。草木が生い茂るままになった田畑を抜けて、福島第一原発に到着する。構内を視察する前に、会議室で廃炉作業の進捗について説明を受けた。

会議室で廃炉作業の進捗について説明を受ける中田英寿

東日本大震災で津波の被害を受けた1号機から4号機のうち、当時点検中だった4号機は、2014年に使用済み燃料プールから全ての燃料取り出しが完了している。

運転中だった1~3号機には、使用済み燃料プール内に残された燃料と、原子炉から溶け落ちた燃料(燃料デブリ)が今も存在している。使用済み燃料プールからの燃料取り出しについては、3号機は2018年度中、1号機・2号機は2023年度を目処に取り出し作業を開始する予定だ。一方、 燃料デブリについては、2019年度までに取り出し方法を確定し、2021年内に取り出しを開始する予定だ。廃炉には、まだ長い時間がかかる。

大型休憩所を視察している中田英寿
大型休憩所のコンビニ 大型休憩所の食堂

構内の視察は、福島第一廃炉推進カンパニー廃炉コミュニケーションセンター副所長である野呂秀明さんの説明を受けながら行われた。

廃炉作業を支えるため、労働環境の改善も進められているという。震災当時、作業場には休憩するスペースがなく、多くの作業員は床に座って食事をとるなど、過酷な環境で働かねばならなかった。

2015年には大型休憩所が完成し、食堂をはじめ、コンビニや自動販売機が設けられた。食堂のメニューには日替わり定食が並び、温かい食事をとれるようになっている。

大型休憩所の7階には構内を一望できる窓がある。中田さんは、窓から発電所の様子を望んだ。

説明を受ける中田英寿 窓から発電所構内を見る中田英寿 窓から見る発電所

中田さん「先ほど説明を聞かせていただいたのですが、専門用語が多いので、内容を理解できない人も少なくないのではと感じました。そもそも、なぜ燃料を取り出す作業にここまで時間がかかるのでしょうか?」

野呂さん「通常、原子力発電では、トラブルが発生した際に原子炉を止めて燃料を冷やします。ところが、3.11直後は津波によって冷却用の電源が確保できず、当時運転中だった1〜3号機では、高熱を帯びた燃料が格納容器の下へ溶け落ちてしまいました。燃料を取り出すためには、どの場所にどれくらい燃料が溶け落ちたのか調べる必要があるため、ロボットなどで格納容器の中の探索を進めています」

中田さん「人が格納容器の中に入って、作業をすることはできないのでしょうか?」

野呂さん「燃料は今も高い放射線を放出しているため、格納容器の中に人が1日でも滞在すれば死に至ります。外からカメラを入れたとしても、10~20分ほどでノイズが出て使えなくなるほどの過酷な環境です」

燃料デブリを 取り出すには、デブリの位置や状態だけでなく、原子炉格納容器内の温度、放射線量、構造物の状態など、さまざまな情報を把握する必要がある。格納容器内は放射線量が高く、人が入って調査することができないため、宇宙線を利用した測定やロボットによる調査を行っている。カメラや線量計を搭載したロボットを投入して格納容器内部の情報を収集し、その結果をもとに次の調査の準備や対策を進めていくのだ。

こういった調査を繰り返すことで少しずつ格納容器の内部が明らかになってきているが、燃料デブリの取り出し方法を決めるには、さらに情報が必要だ。

原子炉建屋で、いま行われていること

原子炉建屋付近へ向かうため、大型休憩所から構内に出る。外に出るために必要な装備は、放射線量をはかる線量計と、線量計を入れるベストのみ。その他は普段着のまま、構内を歩くことができた。現在は構内の約95%のエリアで、作業着と簡易なマスクのみで活動ができるようになったという。

中田さん「ニュースで見たような、物々しい防護服を着るものだと思っていました。この辺りは、ある程度安全になったということでしょうか」

事故発生後しばらくは、外に出るときは全身を覆う防護服やマスクが必要とされていた。原子炉建屋から放射性物質を含んだダストが飛散し、構内の放射線量が高まっていたからだ。しかし、原子炉建屋をカバーで覆ったり、構内の付着した放射性物質を取り除くなどの除染作業を進めることでダストの飛散が抑えられ、放射線量を低減できたという。

車窓から見えるタンク群 タンク郡

マイクロバスに乗り込み、原子炉建屋に近づくための装備を整えに向かう。車窓から見えるタンクには、汚染水から放射性物質を除去した水がためられている。

原子炉を停止した後は、燃料から発生するエネルギーを抑えるために、「冷やす」作業が欠かせない。燃料が溶け落ちた1~3号機は原子炉内へ水を直接注入して冷却を行っているが、この水が燃料に触れることで放射性物質を含んだ「汚染水」になってしまうのだ。

中田さん「毎日どれくらいの汚染水が出るのでしょうか?」

野呂さん「1日100~150トンほどです。汚染水は浄化施設で放射性物質を除去する処理を施した後、タンクにためられます。約10日でタンク1本がいっぱいになります」

中田さん「タンクを置く場所にも限界があるのではと思います。完全にきれいな水にして、捨てることはできないのでしょうか?」

野呂さん「現状ではトリチウムという成分だけ除去ができません。トリチウムは人間の健康に影響を及ぼすほどではなく、国内外の原子力発電所では希釈して海へ排出しています。しかし、福島では風評被害が懸念されるため、現在はタンクに貯蔵している状態です」

中田さん「仮に海へ流すとしても、地元の方に納得してもらうのは現実的には厳しいのではないでしょうか。時がたち、風評被害がある程度薄れている側面もあるとは思いますが、心情的な部分を100%解決させることは難しいと思います」

バスは「免震重要棟」に到着した。建物は免震構造となっており、災害時に対策本部を設ける目的で建てられた施設である。これから原子炉建屋付近に向かうにあたり身の安全のため、マスク、ゴーグル、ヘルメットなどの装備を身につける。再び乗り込んだバスは、構内に置かれたタンクの間を縫うように走り、1号機から4号機までを見渡せる高台に向かった。

高台から原子炉建屋を見渡す 線量計

福島第一原発に入る前はほぼゼロだった線量が、120マイクロシーベルト/時を超える。人間が自然界から受ける放射線量の目安は年間2400マイクロシーベルトであるため、この環境下では1日を待たずに同量の放射線量を浴びてしまう計算になる。中田さんも「こんなに顕著に数値が上がるものなんですね」と線量計の数値を確かめる。

高台からの風景
1号機原子炉建屋 3号機原子炉建屋

中田さん「あれだけの事故を起こした場所ですから、もっと大きな建物を想像していました」

狭い敷地で巨大なエネルギーを得られるのが原子力発電所の特徴です、と東電の担当者が答える。同じエネルギーを太陽光発電でまかなうとしたら、約100倍の敷地面積が必要になるという。その巨大なエネルギーが、3.11では大きな爪痕を残した。3号機では、建屋の屋上にドーム状の屋根を設置するため、巨大なクレーンが作業を進めている。一方で、辺りに散乱するがれきが当時の姿を残しており、事故の大きさを物語っていた。

中田さん「廃炉作業が日々進められていると聞いたのですが、思っていたよりこちらで作業をされている方が少ないような気がします」

野呂さん「朝早くから現場に入る作業員さんが多いので、午後の時間帯は少なく感じられるのかもしれません。浜通りは風が強い日が多いため、比較的風の少ない午前中に作業を行うことが多いのです。また、夏場は熱中症を防ぐため早朝から作業を開始し、気温が高くなる前に作業を終了することにしています。冬場もその流れを継続して、早い時間帯に作業をする企業が多いのが実態です」

中田さん「このエリアでは、一度に何時間ほど働くことができるのでしょうか?」

野呂さん「最大10時間ですが、放射線量を見ながら作業の時間を決めています。許容される被ばく量は法律で定められており、一定以上被ばくした作業者は現場の作業に関わることはありません」

中田さん「思い通りに作業が進まないこともあるのでしょうね。この中のどこに燃料が溶けているかも、まだわからないわけですから」

バスから見た原子炉建屋

バスは高台から海側へ下り、4号機の前を通過した。防護服を身にまとった作業員がバスに一礼する。外壁が崩壊した3号機にバスが接近したときは、線量計の値は最大290マイクロシーベルト/時まで上昇していた。

事故を繰り返さないために、学ぶことがたくさんある

バスは免震重要棟へと戻った。装備を解き、測定器で全身の放射線量を計測。問題がないことを確認する。

構内に立ち入る際に身につけた「線量計」は、作業中に浴びた放射線量を計測している。この日は、2時間ほどの視察で0.02ミリシーベルト(歯のレントゲンを2回撮影したのと同等の被ばく量)を記録していた。

緊急時対策本部の内部1 緊急時対策本部の内部2

免震重要棟には「緊急時対策本部」が設けられている。事故当時、24時間休みなく対策の指揮を執っていた場所だ。ニュースでも目にした巨大なモニターは、今も東電の他の原発や東京本社と専用回線でつながっている。3.11以降、全国の原子力発電所にも同様の施設を設けるようルールが定められたという。

作業員から話しを聞く中田英寿

廃炉作業に携わる作業員は、日々どんな思いで働いているのだろうか? 中田さんは5人の作業員に話を聞いた。

中田さん「今日、現場を見てきました。廃炉作業に対して、皆さんはどのようなモチベーションを持って向き合われているのでしょうか?」

中島さん「作業をひとつひとつ着実にこなし、廃炉に向けて少しでも力になれればと思いながら取り組んでいます」

佐藤さん「福島のため、日本のためというのもありますが、自分の子どもたちに誇れる親でいたい、という気持ちが大きいです」

中田さん「原子炉の内部がどうなっているのか、なかなかはっきりしない状況での作業は、準備や計画も難しいのではないですか?」

長嶋さん「事故当時は、その日の作業がその日の朝にわかるなど、先が見通せない状態が続きました。現在は労働環境も改善し、施工計画に沿って作業ができているので、前に進んでいる実感があります」

話しをする5人の作業員 (写真左から 東双不動産管理株式会社より松永恭子さん、水野智史さん。
熊谷組・東起業敷地造成工事共同企業体より佐藤忍さん、長嶋淳一郎さん、中島賢司さん)

中田さん「福島第一原発から外に出たとき、復興が進んでいると感じる場面はあるでしょうか?」

松永さん「震災当時は街灯も信号なく、真っ暗な道を通勤していました。今は避難指示が徐々に解除され、街に明かりが戻ってきています。少しずつですが、日常が戻ってきているのかなと思います」

水野さん「現在、福島第一原発には年間約1万人の方に視察へ訪れていただいています。これからも復興や廃炉作業などの現状を、使命感を持ってお伝えできればと思っています」

中田さんは「一歩ずつ、廃炉という道に向かっている」と実感する一方で、汚染水など解決策が明らかになっていない問題があることを気にかける。

中田さん「すべての問題がいつ解決するか、まだはっきりしていない状況です。環境が改善しているとはいえ、長い時間を必要とする仕事を続けるのは、やはり大変なことなのだろうと思います」

Jヴィレッジから、福島の未来を見つめて

福島第一原発を後にし、中田さんは楢葉町にあるJヴィレッジを訪れた。1997年に日本最大規模のサッカートレーニング施設として開設されたJヴィレッジは、中田さんも日本代表として何度も合宿に訪れた場所。出迎えた関係者や役員の中には、中田さんの海外移籍を後押しした元ベルマーレ平塚監督・上田栄治さん(写真右)の姿もあった。

震災直後、福島第一原発から20キロ圏内は「警戒区域」として立ち入りが厳しく制限された。Jヴィレッジは警戒区域の境界からわずかに南へ外れていたため、広大な敷地は原発事故収束のための拠点に姿を変えた。毎朝7千人の作業員が集まり、大型バスで現地へ向かう。中田さんも日本代表として練習したピッチは駐車場となり、トレーニング施設としての役割は中断せざるを得なかった。

Jヴィレッジの様子を聞く中田英寿

中田さん「あれから7年がたちましたが、ピッチにはまだ近づけないのが現状なんですね」

Jヴィレッジはゼロからピッチの整備をやり直しており、2018年7月末に再開を予定している。新たに全天候型練習場も建設中だ。「選手たちは来てくれそうですか?」とブランクを心配する中田さんに、上田さんは「この場所が安心・安全であることを発信できれば」と語った。

福島の「これから」に必要なものは何だろうか。Jヴィレッジには、教育と漁業という異なる分野で、福島の未来に向けて活動する2人の人物が来てくれていた。震災後に双葉郡で開校された中高一貫校「ふたば未来学園高等学校」で副校長を務める南郷市兵さん(写真右)と、相馬市の原釜港を拠点に水産仲卸業を営む飯塚哲生さん(写真左)だ。

南郷市兵さん、飯塚哲夫さんと話す中田英寿

南郷さん「いま福島では、大人たちが復興の行く末を完全に見通せない状況です。そんな中、子どもたちに必要なのは自分の足で歩める力。『解のない課題』に立ち向かえるよう、新たなカリキュラムを設けて取り組んでいます」

中田さん「中学生は義務教育のカリキュラムがあると思いますが、そうした新しい取り組みは国から特別に許可を得るなどして進めているのでしょうか?」

南郷さん「いえ、特例を受けているわけではありません。全国の学校で真似できるようにカリキュラムを組んでいます。次世代に必要な力を育てるための『モデル校』になれればと考えています」

中田さん「漁業はどうでしょう。震災後、やはり風評被害などの影響も感じますか?」

飯塚さん「特に海外では、他の国の事故と混同されているなど、誤った『フクシマ』が拡がっています。相馬の魚には絶対の自信があるので、原釜港を世界に通じるブランドにしたいですね」

中田さん「僕は日本酒を扱っているのですが、海外には検査基準がとても厳しい国もありました。魚の海外輸出にも同様の難しさがあるのではと思います」

飯塚さん「乗り越えねばならない壁はありますが、それでも自分たちの力で『フクシマ』を『福島』に戻せたらと思っています。漁師の仲間には、自分の家も津波で流された人もいます。それでも、若い自分たちが立ち上がらなければ、未来はありません」

帰路のバスに乗る中田英寿

帰路につくバスの中で、中田さんは今回の視察を振り返った。

中田さん「初めて福島第一原発を訪れて、防護服が必要ない場所もあり、これまでのイメージが変わった部分もありました。また、燃料の取り出しや汚染水など、簡単には解決しない問題についても聞くことができました」

帰還困難区域に閉ざされた街のように、7年前で止まっていた福島第一原発の記憶。だが、時計の針は着実に動いていた。作業着姿で歩けるエリアが広がり、温かい食事をとることもできる。一秒を争う危険な状態を脱し、働きやすい環境作りに目が向けられるようになった。

一方で、廃炉作業はまだ多くの課題を抱え、長い年月を必要とする。何がどこまで進んでいるのか、また、進んでいないのか。報道の数が減ったいま、積極的に情報を取りに行かなければ、状況を把握することは難しい。

中田さん「やはり専門用語も多く、完全に把握するには時間がかかりそうです。今後自分たちがこの問題を考えるうえで、よりわかりやすい伝え方が必要なのかもしれません」

福島第一原発構内にいる中田英寿

中田さんは「ただ、福島第一原発は震災の象徴のひとつではありますが、それが全てではありません」と続ける。

中田さん「震災から7年がたち、風化を恐れる声もありますが、ただの『忘れない』ではなく、何のために『忘れてはいけないのか』が大切なのだと思います。毎日の生活で当たり前のように接している食料や電気のことを、どれだけ自分たちが理解しているのか。当たり前のことだからと、何も考えずに過ごしてはいないでしょうか。誰が、どのように作り、いま何が起きているのか、きちんと意識を向ければ日々の暮らし方も変わるはずです。多くの問題は無知から起こります。生活について考えることを、忘れてはいけないと感じました」

「あれから7年」という言葉の裏には、人々の生活が積み重ねられている。避難先で、仮設住宅で、未だ多くの時間を過ごしている人たちがいる。7年前の「記憶」と戦い、未来を引き寄せようとする人たちがいる。

そして、全ての人々が、これからも同じ空の下で生活を続けていく。考え続けること、学び続けることを積み重ねることで、望む未来へと手が届くはずだ。

動き始めた時間。次の世代へのバトンも

福島県富岡町の様子

今回の取材の出発地点となった福島県富岡町は、福島第一原発から20km圏内にあり、震災以降「帰還困難区域」に指定されていた。2017年4月には避難指示が解除されたが、一部の地域は未だ帰還困難区域にあり、7年前から時が止まった街の姿が残されている。

帰還困難区域のバリケードから車で約10分の場所に、常磐線の富岡駅がある。避難指示の解除を受け、2017年10月に営業を再開。駅前では復興住宅や避難道路の建設が進められている。

商業施設 さくらモール

富岡駅にほど近いエリアには、2017年3月に商業施設「さくらモール」が開業。住民のほか、復興関連の作業員が買い物や食事に訪れていた。

復興にはまだ長い歳月が必要となる。これからの福島を担う存在は今の子どもたちだと言えるだろう。いわき市の中学校で教鞭と取る亀岡点先生に、現在の子どもたちの様子を伺った。

亀岡ともるさん

「震災前に比べ、生徒たちが『福島出身』であることを強く意識するようになりました。卒業生のなかには、廃炉作業や震災孤児のケアに携わるなど、地元に貢献する進路を選ぶ者も増えています。一方で3.11から7年がたち、震災そのものを知らない世代も現れてきました。あの日になにがあったのか、次の世代に伝えていく必要も感じています。過去から未来へと、それぞれが置かれた環境で、いま自分ができることを意識して続けてもらえたらと願っています」

ライター:井上マサキ
カメラマン:谷口巧
編集:都恋堂